『立場』の話がしたい。この記事は、誰に届くことも期待していない私の主張である。
人間は、大抵どこかのコミュニティに属している。もちろん複数人が集まっているはずなので、その人々には何かしらの立場がある。「〇〇さんは専門職の資格を持っている」「〇〇さんは課長」のような、誰かしらに認められた立場の人もいるし、「〇〇さんは優秀」「〇〇さんは面白い」などという、客観的だがふわっとした評価により一定の立場を獲得している人もいると思う。読者様にも、きっとそう言われて思い当たる〇〇さんはそれぞれに存在しているだろう。
人間社会における立場というのは、必ず自分以外の誰かが認めないと成り立たない。日商簿記検定の"資格を持っているから"経理に詳しい、周囲が"信頼しているから"集団をまとめるリーダー的存在だ、など。どれも自称するだけだと、さほど意味がない。しかし"~だから"があるから、その人に立場があり、立場相応の役割が与えられる。
では、この"~だから"が共通認識として機能していなかったら、どうだろうか。例えば、「TOEFL iBTで80点(英語の試験、得点率66%程度)だから、」と言われたら、その後に続くのは「英語の仕事を任せられる」なのか、「任せられない」なのか。「海技士を持っているから、」に相応しいと言える役割は何なのか。少し例を考えるだけでも、些細とは言い難い問題があることに気付くと思う。
早速タイトル回収をしよう。「彼は学生だから、」という呪いの言葉についてである。
"学生"という立場について
"学生"というと、どのような立場の人間を想像するだろうか。きっと、いや、確実に、人によって認識が異なると思う。
主張を明らかにする前に、まずは定義を明らかにしようと思う。"学生"とは、"学校(とりわけ高等教育機関)に入学して知識を学んでいるもの"とされている。高等教育機関とは、短大、大学および大学院のことである。専門学校生は"専門学生"というらしい。近年は、おおよそ8割の日本人は学生という立場を経験しているらしい。ただ、これが良くない。
人間は、自分が見たもの、知っているもの以上のことについて思考するのが難しい。だから、この"学生"という言葉を聞いても、自分とその周りの人間の事情、良くて親戚の境遇を思い浮かべるのが精一杯で、自分の身の周りの人たちが普通だと思ってしまう。それを逸脱した人間のことを考えるに至らない。これを必ずしも悪だとは思わない。ただ、一瞬でも慮る程度の余裕は持ち合わせたい。
私は、先日アラサーと言われる年齢に片足を突っ込んだ。しかし、社会的な立場としては学生だったもので、立場相応の待遇を受けたといえば受けたが、納得できるものは本当に稀有だった。それもそのはず、上位の立場の人々からすれば、「こいつは"まだ"学生だから、」なのである。ただ、今の世の中、上位の立場が知る"学生"というのは、せいぜい大学生で、本人が経験しているのは高校生まで、なんて人も少なくない。そこに登場する"学生"に、"だから"なんて言えるほどの妥当性は無い。「秋だからアイスを食べる」くらい意味不明である。これは食欲の秋ではなく、さながら暴食の秋である。もちろん立場を見誤っているので、妥当な評価などできるわけもない。しかも、タチが悪いことに、「学生なんて世間知らずの半人前だから、そいつの意見など聞くに値しない」などと本気で思っている。思い上がるのもいい加減にしてほしい。厚顔無恥という言葉がよく似合う。世間知らずはどっちだろうか。
『立場』についての主張
半分愚痴のような文章になってしまった。閑話休題。『立場』というのは、周囲の人間が与えるものである。自分ひとりしかいないのに、立場なんてものが成り立つわけがない。以前にも「人間社会に必要とされているのは"席"であって本人ではない」みたいな記事を書いた。それに近い話である。
誰かが座席を用意し、その人がそこに相応しいと評価されるから、その人があてがわれる。ここで注意しなければならないのは、その席にいるときにしか、その立場での経験は得られないということである。すなわち、縦社会がちらつく以上、上司であるあなたが、「じゃあ君、これやってみようか」と立場を与えてやらない限り、その彼はいつまでも次のステップでの経験が積めないのである。過小評価が彼の成長を妨げることを忘れてはならない。「学生だから、」と周囲が立場を決めてしまうから、"大人の"話に入れてもらえない。だから、いつまでも学生ロールプレイをさせられる。「本人が殻を破る」などというのは、自由度がある段階での話であり、学生ロールプレイの先にしかない。ステップアップには、スプラトゥーンの昇格戦のような、モンスターハンターの緊急クエストのような、そんな仕組みが必ず必要である。
ただし、この"立場ロールプレイ"は、若手ばかりが強いられているものではないことを誤解してはならない。健全な縦社会でこそ、どうやら"上司ロールプレイ"、"中間管理職ロールプレイ"なるものが行われているようだ。ロールプレイというには番外戦術が多い気がするが、その境界はどうせ曖昧な方がいい。その立場には、自由度と、それに見合った責任の重さの違いくらいしかない。そして、ここにおいても、過大評価が彼の尊厳を壊してしまう可能性がある。結局、社会に生きる人間が他人の評価から解放されることはないのである。だからこそ、色眼鏡がある不確かな『立場』なんてものに捉われずに適切に評価する眼が必要かもしれない。「えっ、(この程度の)こいつがこの資格持ってるの?これで?」となったことがあるあなた、つまりそういうことです。
おまけ: この記事を書くに至った経緯
最後に、私がこの記事を書くに至った経緯でも書いておこうと思う。簡単に言うと、"学生"という身分の幅の広さを知ってもらいつつ、あわよくば後輩の待遇を改善したいという思いからである。
私は先日、大学院の博士課程を修了し、学位の最高位である博士号を取得した。高校卒業後、同級生が次々と社会人になっていく中、大学の学部生(4年)→修士課程(2年)→博士課程(3年)の合計9年間にわたる学生生活を経て、学問的な意味で研究者としての免許といえるような、国際的なお墨付きをいただいたのである。海外の場合、敬称が"Mr."ではなくて"Dr."になります。9年間も大学に残っていたというと、「勉強が好きなんですね(呆れ)」のように言われるが、これは少し違う。大学院は研究をするための機関であり、企業の研究職や研究所とほぼ遜色ない働きをしている。
最近は、日本の研究力が落ちているというニュースを頻繁に聞く。その要因として、文部科学省は次のように述べている。
近年、研究力を測る主要な指標である論文指標について、国際的な地位の低下が続いています。文部科学省科学技術・学術政策研究所の調査によると、2000年代前半以降の日本の大学の論文数の停滞要因として、教員の研究時間割合の低下、教員数の伸び悩み、博士課程在籍者数の停滞、原材料費のような直接的に研究の実施に関わる費用の停滞といった要因が挙げられます。
大学院に5年間もいた人間からすると、ここに挙げられている要因4つは、すべて金の問題に帰着するように見える。もう少し譲ると、大学院生(特に博士課程)の在籍者の停滞である。その理由を説明しよう。
- 教員の研究時間割合の低下: 学生に対する所属教員人数が少ない。そのため、学生の面倒を見るのに忙しくて、自分の研究に時間を割けない。また、事務作業も自分でこなさなければならない教員も多い。これは、新しい教員や事務員を雇う金が無いからである。
- 教員数の伸び悩み: 上の項目でも教員人数が少ないと言ったが、この通り、そもそも教員になる絶対人数が少ないのである。これは、薄給のくせに将来が保証されない不安定な雇用体系にある。研究をする教員になるには、基本的に博士課程に進む必要があり、その後、研究室を転々として、(博士課程、助手→)助教→講師→准教授→教授と登り詰めていくことになる。ここまで時間と金と生活をかけて進む先が薄給かつ不安定とは、あまりに割に合わない。そんな道を進みたい物好きに溢れた時代は既に終わっている。
- 博士課程在籍者数の停滞: 大学の研究室に入る人は、必ず博士課程の存在を知ることになると思うので、認知度については問題ないと思う。修士課程の学生が博士課程まで進まない理由は、金銭的にも将来的にも不安しかないからである。私の分野の人でさえも、博士課程に進むよりも一般企業に就職した方がいい生活が送れる期待値は高いだろうと私でさえも思う。
- 原材料費のような直接的に研究の実施に関わる費用の停滞: これは金の問題そのもの。
私は、国の研究力の低下は、テクノロジーで推し進める現代においては由々しき事態だと思う。パッと思いつく話では、他所が特許を持っていると、その技術を使うのにお金を支払う必要がある。つまり、金銭的に損をするので、最先端の研究が行えるに越したことはない。だから、研究力強化のためにも研究者の卵である博士課程に進む人が増えたらいいと思う。だが、現状の博士課程は、どう勧めてもアピールポイントに乏しく、しかも無責任でしかない。したがって、博士課程の待遇改善を望んでいる。
博士課程の待遇改善の方法は、多く議論されている。私は、どうやっても金が動かないと改善は無いと思っているので、世間が「研究者(博士課程や博士号を持った人)は好待遇で然るべき」という認識になる必要があると思う。いや、好待遇とまでは言わなくても、もう少しばかり待遇を上げてもいいのでは?という認識になってほしいと思う。そのためには、博士課程やら博士号やらという立場を適切に評価してもらわなければならない。その評価の上で現状が適切とされるなら、きっと現状が妥当なのだろう。国の研究力低下も甘んじて受け入れるしかないということだ。
ここに博士課程の現状を書き連ねることも考えた。認知してもらうには、アカデミックなコミュニティ以外で叫ぶことにこそ意味があるはずだからである。しかし、こういう記事は往々にして真のターゲットにこそ届かないものだ。難しく書いたところで、真面目に読む人も少なかろう。だから、「こんな人もいるらしいよ」程度に知ってもらえればいい。その気持ちが、この記事を書くに至らせた。
最後に、この章の主張を箇条書きでまとめてみる。ここだけ読めばいい。
- 国の研究力が低下している。
- 研究力強化には、研究者および研究者の卵の人数が増える必要がある。
- 研究者および研究者の卵の人数を増やすには、待遇の改善(特に金銭面)が必要。
- 待遇の改善には、適切な評価が必要なので現状を知ってほしい。
- ここに現状を書き連ねると長くなるので、「研究者って未来を担っているのに、卵の段階から待遇が悪いらしい」程度に知ってもらえればいい。
博士課程にもなると、よく知られる学生とは境遇が大きく異なるほどの年齢なので、本当に人それぞれの学生生活がある。(博士課程中に結婚して出産してる方も珍しくない。)だから、私がここにたくさん書いても、それが必ずしも参考になるとは限らない。きっと一般的ではないと思う。ただし、もしも読者様の中に博士課程に興味がある人がいるのなら、私は協力は惜しまない。