席と人の話

先日、所有するとあるTwitterアカウントを削除した。そのコミュニティの距離感が肌に合わないと感じてしまったからだった。そのアカウントで関わりがあった方々とは、Twitter以外での繋がりが皆無であるため、言わば今生の別れということになる。白状してしまうと、この"れもちゃ"も消そうと思ったことがある。ただ、この"れもちゃ"に紐付けられているサービスがあまりに多かったため、流石に面倒になり諦めた。恐らく将来的には、静かに離れる形で、ここにひっそりと棺桶だけが残ることになるだろう。


インターネットをする上で常に気にしていることがある。それは、『ネット社会での繋がりは、あまりに脆く弱い』ということだ。これは元々、とある配信者が配信内でチラッとおっしゃっていただけの言葉なのだが、本当にその通りだと思う。
私なりの解釈にはなるが、簡単に注釈を加える。SNSはアカウントを用いてロールプレイをしている(私ならば、"れもちゃ"と名付けた人格を使い、そのアカウントを通して他人との繋がりを保っている)だけである。だから、例えばそのアカウントが消えたり、アカウントにログインすることを止めたりしてしまったら、仮にその本人は生きていても、その本人にアクセスすることができなくなる。これは、その人の存在が消えてしまうことと大差ないと言えるだろう。もっとシビアなことを言うと、Twitterも誰かにより用意されたプラットフォームである以上、そのアカウント主だけではなく、Twitterの管理者の気分次第でも、その繋がりは指先ひとつで簡単に壊れてしまう。本ブログ執筆時点では、Instagramのアカウントの大量凍結も記憶に新しいが、そのようなことが明日にでも起きない保証はない。つまり、誰か、もしかしたら"神の"かもしれないが、誰かの気分次第でいつどのように壊れても何の不思議もない繋がりなのだ、ということである。この"繋がり"の崩壊を防ぐには、その人のコアとなるアカウントのアバター、すなわちリアルでの本人にアクセスする機会を何とかして作り、他のSNSなども活用して繋がりを強固にする以外にない(このような心配をするのも、「ネットで知り合った人と会ってはいけません!」と教育された幼き日を考えるとあまりにも奇妙なことである)。




現実世界の話をしよう。この厳しい社会では、誰にでも休みがあることになっている。厳しい世界、社会から離れて、ゆっくりとお休みする時間というのは、誰にでも適当に必要である。法律でもそう言っているので、これは疑いようのない事実としよう。また、突発的なお休みや、計画的だが予測しづらいお休みなんてものも数多く存在することは多くの社会人なら(社会人でなくても)、心得ている節はあると思う。しかし、休みが保証されることは嬉しいが、その休んでいる間には同僚の誰かが働いていることがほとんどである。つまり、個人の視点から見える休みの日は、社会にとっては休みの日ではない。これが焦りを加速させるなんて話もあるが、私はむしろ逆ではないかと思う。休みであることに焦ってしまう方々は、あまりに人が良すぎる。素直すぎてかわいい。早急に保護されるべきである。
何が言いたいかって、結局、社会なんてものは自分がいなくても何食わぬ顔でまわるものなのである。もしかしたら、自分がその仕事をしていることに誇りを持っている人を怒らせてしまうかもしれない。しかし、残念ながらこれは自分が休みの日でも社会が動いていることが証明している。むしろ、自分が少し休んだくらいで滞る方が異常なのだ。休みに焦りを覚えなければならないならば、それは社会が悪い。『それくらい図太く生きていこう!』ではなくて、そんなひとりに責任が重く圧し掛かる社会なんてあってはならないと言っているのだ。どうせひとりが辞めたところで別の誰かが補填される。その席に座っている人が必要なのであって、そこに座っていたのが、たまたま"自分"だっただけなのである。社会はそうしてまわってきたし、これからもそれは変わらない。

翻ってプライベートの話をしよう。社会は自分がいなくてもまわるが、プライベートはどうやらそんなことはないらしい。あなたの親から見れば、あなたは子だし、あなたの子どもから見れば、あなたは親である。あなたの恋人からすれば、あなたはその恋人だし、あなたの友人からすれば、あなたはその彼/彼女の友人である。必ずしも唯一とまではいかないかもしれないが、誰がどう見ても替えが利くものではない。いなくなったので補填しましょう、という簡単なものではなくて、そこに席がある以上、その席に座っているのが"あなた"である必要がある。



仕事では嫌でも人が必要とされる。が、それが、"あなた"である必要がある場合は本当に少ない。一方でプライベートでは、"あなた"が必要とされる。これは裏を返せば、"あなた"が"あなた"でいることを望まなくなったり、"あなた"が必要とされなくなったり、もしかしたら誰かが"あなた"の存在を強く否定したりしたとき、"あなた"が"あなた"であることが意味を成さなくなることがあるとも言う。だから、あなたが大切だと思う"その人"を"その人"として存在させるためには、あなた自身が"その人"を大切にするべきである。他人を大切にする価値は、そこにあるのではないだろうか。




どうやら私は、そのTwitterアカウントを消したことで、そのコミュニティの方々を幾分か悲しませてしまったようだ。実際に繋がりがあったアカウントのいくつかは、その感情をTLにぶつけていたという。しかし、消えた私には彼らが何を言おうと知ったことではない。"推しは推せる時に推せ"というのは、オタクの推し活以外にも通ずるものがある。