"無駄"の話

"無駄なこと"というと、何を思い浮かべるだろう。ポケモン対戦を嗜む方々ならば、"無駄急所(確定数が変わらないときの急所に当たった)"なんて言葉がすぐに思い浮かんだりするだろうか。試験が近い学生なら、「テストに出ないなら"無駄な勉強"」、この社会を動かす一端を担う人なら、「もっと効率的にできるはずなのにしないとは"無駄な労働"」、「定時で帰れるのに上司の目があるからする"無駄な残業"」、そんな言葉も言いたくなるかもしれない。人にはその人なりの、"無駄"があると思う。

僕は、"本当の意味で無駄なこと"を探すのは、極めて難しいと思う。ということで、上に挙げた例を回収しよう。まず、"無駄急所"についてだ。これは、刹那的には明らかに無駄である。もっとも、「無駄急所だ」と騒ぐ時には相手を倒した時なので、本当に無駄だったかは諸説の場合も少なくないだろう。次に、"無駄な勉強"、"無駄な労働"、"無駄な残業"についてだ。これらは、どれももしかしたらどこかで役に立つかもしれない...!なんてつまらないことを言うつもりはない。そんなことをしたり顔で書くくらいならブログを閉じる。この3つについては、"無駄"ではなくて"有害"だ。なぜなら、他の何かを圧迫しているからだ。本当にテストに出ないというなら、もっと確実にテストに出そうな基礎や重要と言われた場所をもう1周するべきだ。その業務がより効率的にできるはずなら、今後のためにも改善するべきだ。上司の目を気にして帰宅後の時間を削っている場合ではないのだ。だから、これらは"無駄"より質の悪い"有害"である。

この"有害"の視点を加えるだけで、"無駄"というのは難しくなると思う。"無駄"は、ニュートラルであるべきだと思う。


さて、もうひとつ視点を加えよう。これは冒頭に述べた、"その人なりの無駄"、要するに誰目線で有益/無駄/有害なのか、ということだ。

結論から言ってしまえば、『その人が納得していれば何でもいい』のである。これで話を終わらせてもいいが、ここはもう少し書ける場所なので書いてみようと思う。

僕は、断捨離は苦手なくせに熱しやすく冷めやすい人間だ。だから、「いつか使うかも」なんて言って使いもしない物を取っておくことがある。これは、客観的に見るならば、邪魔になっているので"有害"だ。ただ、僕は納得しているので、どちらかというと"有益"だ。本当に"無駄"だとか"邪魔(有害)"だとか思ったら、その時に手放せばいい。これで納得しているので、これで許してほしいなあなんて思っている。


さて、世の中には拾っても邪魔にならないものがある。それは、『知識と経験』である。もちろん、これらは心の持ち方次第では毒にも薬にもなる。しかし、これらは嵩張るものでもなければ、取られて減るものでもない。当たり前ではあるが、集合知として見れば、無尽蔵な財産である。
なぜこの話題を出したか。別に読者を怪しい宗教に招こうとかいうものではない。それは、これらは客観的に見ると"無駄"なはずだからである。というのも、これがあるばかりに脳の容量を圧迫することもなければ、常に役立っているわけでもない。いくら期待されようとも使わないなら、あってもなくても変わらないニュートラルなものである。

『知識は無駄である』という主張をもっと確かなものにしよう。人間も、広い意味では動物である。動物は、子孫を残すことで自分の種族を未来に繋いでいく。しかし、そこには食物連鎖をはじめとした有限な資材の奪い合いがあって、生存競争がある。地球上の動物は、その生存競争に必死になっている。人間を除いて。
気付けば人間は、その生存競争においてはグリーン車に乗っている。だから、生存競争には不要な享楽に時間を割くことができるのである。そうしてできた余白をニュートラルなことで埋めることができている。知識を手に入れた結果として自爆気味だとかいうのは置いておいて。僕は、よく「学業は金持ちの道楽だ」と言っては顰蹙を買っている。だが、これも動物の生存競争と同じことである。生き抜くために必要なことを放棄して胡坐をかいていられるのは、それだけの余白があるからだ。


しかし、そんな知識や経験も、少しだけ有益に見えることがある。その例を話したい。僕は、水族館が好きだ。都内の水族館にふらっと行くことがある。すみだ水族館サンシャイン水族館は、同じ建物内にポケモンセンターがあるので、ポケモンが好きなら行ったことがある人も少なくないだろう。そのサンシャイン水族館に行ったときの話だ。
僕は、水族館に行くエレベータを待っていた。隣には、幼い娘さん2人とその父親の3人がいた。そして父親の手には、半壊した犬のバルーンアートがあった。聞こえてくる話によると、どうやら娘さんがバルーンアートで遊んでいたら崩れてしまったようだ。父親は、頑張って直そうとしている。僕もエレベータを待つ間とても暇だったので様子を見ていたが、どうにも直せそうにない。僕は、その娘さんと、何より父親が不憫だった。そして、エレベータが来るまでに直せると踏んだ僕は、直してみることにした。その父親に声を掛けて、サッと直して返してみた。その手腕を驚かれたが、僕はただ楽しかった。本当にただの自己満足である。
でも、そんなバルーンアートだって、昔は親に「風船が擦れる音が嫌だからやめて」と散々言われた。風船が割れれば、うるさいと嫌な顔をされた。親から見れば、言ってしまえば有害だったのだ。それでも、僕が楽しかったから、そんな余白の埋め方をしただけだった。親から見れば有害で、その時の自分を顧みれば無駄だったバルーンアートの知識と経験が、刹那的ではあるが有益なものになった。


僕は、"無駄"を悪いことだとは一切思わない。無駄だからできること、無駄だから都合がいいことというのは、いくらでもあると思う。突き詰めれば大抵のことはどうせ無駄である。だからこそ、無駄だからと目くじらを立てることなく、無駄を無駄と分かりながらも楽しめる人になれたらいいなと思う。